宗教に依存していない人ですら、出来事に対して理由を求める。
もしくは言い訳にする。
「なんでわたしにこんなことが起きるの?」
「なぜ今日に限って悪いことが立て続けに起こるの?」
「なぜ何をやってもうまくいかないの?」
久しぶりにうちの会社の代表の話をすると、
例えば競争入札で仕事を取れなかったとしたら、それは「災難」なのだそうだ。
だから、いつも以上にゲンを担いだり、神頼みをしたりする。
そんなことは全くの検討はずれだ。だって検証できないのに。
「人事を尽くす」とは、そういうことじゃないと思う。
無意味にアタフタすることでもなく、神頼みに走ることでもない。
例えば1分間で100個の漢字を覚えないといけない場合、
1分間をフルにつかって漢字を覚えようとする人と、
最初の30秒を覚えるのに使って、残りの30秒を神頼みに使う人では、
どちらが有利なのだろう。
神頼みをする人が恐れているのは、例えば「30個書いた時点でペンのインクがなくなってしまう不運」とか、「50個書いた時点で天井が崩れ落ちたらどうしよう」とかだろうか。
会社の代表がよくいうのは「前回の入札で横やりが入って、別の会社に仕事を持っていかれた」ということらしい。
そういうことは自分ではコントロールできないので、神様をお参りするのだそうだ。
こういう人はきっと山崎豊子の「不毛地帯」とか読んでないんだろうな。
僕が思う神頼みは神事だ。人々が豊作祈祷したり、日々の平安を神に感謝したりする。
神事の前提にあるのは、人間である自分たちが未熟者だという自覚がある。
けして、神頼みをすれば、自分に都合の悪いことは起こらないということではないのだ。
事実、神頼みをしていても現在までの競争入札は連戦連敗だし、その理由は明らかに企画力不足だ。
しかし、代表の神頼みはエスカレートしている。社員への給料は滞るのに、神頼みに必要な消耗品は買い捲る。
間違った信念が狂気に向かっているのだ。まさにアーサー・ケストラーが「機械の中の幽霊」で言っていたことだ。
人事を尽くすということは、日々精進するということだ。
天命を待つということは、「どうにもならないことは気にしない」ということだ。つまり、精進すること以外にすることはないのだ。裏を返せば、精進すること以外に心配することはないのだ。
そして、発生した出来事にいちいち理由を求めない。
省みることや正すべきことがあるなら、それを実施すればいい。
とにかく理由を求めない。