強い人と弱い人

この記事はとりとめもないことを書いています。
ぜんぜんまとまりもないし、言ってることも意味不明かもしれません。
しかし、そこはそれ。備忘録なので、後からまともな文章になる、、、かも。

twitterでフォローしているアカウントに名言ナビbot(応援編)というのがあるが、その中のツィートにこんなのがあった。

弱いとは、行動が感情に支配されることである。強いとは、行動によって感情を支配することである。(オグ・マンディーノ)

この「強い」「弱い」は、「意思」にかかる言葉だ。つまり意思が強いか弱いか。

理屈ではわかっていても煙草を我慢できない。
理屈ではわかっていても、スナックを食べてしまう。

わかっていても、、、わかっていても、、、

まぁ、確かに意思が弱いといえるかもしれない。
しかし、意思が弱いイコール心が弱いとはいえない。

例えばネコに興味がない人は、ネコが道路で轢かれていても、なんとも思わない。
しかし一方では、そんなネコの骸をみただけで、半狂乱になるネコ好きもいる。
これは、前者は何かを我慢していて、後者は我慢できなかったんだろうか。

煙草を嫌悪している人は、どんなことがあっても煙草を吸わない。
煙草を嫌悪していない人は、何かの度に喫煙が頭をよぎる。

これは以下と同じ。

ある人の存在を知らない人は、その人のことが気にならない。
ある人が好きでたまらない人は、いつもその人のことが頭をよぎる。

これは意思の問題か?

僕がなぜ今人間をやっているのかと考えたとき、
前世でも「人間は嫌だ」と思っていたにもかかわらず、
前世と現世の間の世界で、人間になるかならないかを一任されたけっか、
自分で「やっぱり次も人間やるわ」という答えを出したんじゃないかと思った。

そう考えた場合、「ありえるかも」と思ってしまったから怖い。

それこそ「理屈ではわかっているけど、なぜかそっちへ行ってしまう」的だ。
何かを期待しているのか、それとも麻薬のような効能なのか、それはよくわからない。

しかし、こういう人間は操作するのが容易いだろう。
目の前にえさをちらつかせれば、そっちへ流れていくのだ。

そして、そういう人はたいてい、自分の中で理由付けをして、そっちに進むことを正当化している。

しかし、意思の強い人は、一度決めた道を変えたりしない。

まるで前者は人間。後者は機械のようだ。
実際に端からみると「意思の強い」人に対して「あんたには血も涙もないのか」と思うこともある。
たとえば「ザ・ホワイトハウス」で共和党のつなぎ予算を蹴って連邦政府の機能停止を受け入れたバートレット大統領(第5シーズン「機能停止」だったかな?)。

で結局何がいいたいかというと、「言い訳」はやめよう。ということだ。
今のところは。

煙草はずっとやめているが、ウダウダと言い訳は考えない。
煙草のない生活が退屈なら、吸えばよいのだ。
禁煙する言い訳を考えない。やめたくなったら止めればよい。
すいたくなったら吸えばよい。

つまりは感情だね。感情よりも理屈が大切。
感情が入り込むと推理すらままならない。そんなことをシャーロック・ホームズも言っている。

 

 

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