仏陀が実践した修行方法の1つ(というか本道)に、「中道」というのがあるそうだ。
苦行と快楽の間にある精神状態で修行を行うことだそうだ。まあ、かなりざっくりとした説明だが。
思想や体制においても「中道」というのがある。右翼と左翼の間だ。
中道は右翼にも左翼にも属さないのではなくて、その主張が右翼的な面と左翼的な面があるということだ。
僕個人の理想をいえば、あるひとつの問題について、右翼と左翼に徹底的に議論してもらい、そのメリット・デメリットを出し切った後で、最終的な判断を下せる人間を「中道」というのだと思う。
話を戻すと、思考にも両極端がある。
表題にも書いた「無思考」と「過思考」である。
ただし、この話はあくまで、思考をある程度自分でコントロールできる人のことを言う。
思考をコントロールできないときは、可能なかぎり何も考えないほうが良い。これは経験からそう思う。その場合、薬の助けが必要な場合もあるかもしれない。
自分で思考をコントロールできる人でも、気がついたら色々考え込んでいることがある。たとえは悪いかもしれないが、いわゆる「心配性」という類だ。
その反対に、何も考えてない人もいる。後先を考えずに行動する人だ。
そういうのは無謀以外の何者でもない。
行き当たりばったりとはちょっと違う。行き当たりばったりは何も考えていないわけではなく、根本の思想があり、その上で都度進む道を考えているのだ。無為無策とは意味が違う。
用語の前提は以上のとおりで、ここから本題に入る。
といってもそんなにややこしいことではなく、ようは考えすぎもよくないが、何も考えないのも良くないということだ。
至極当たり前のことだ。「そんなことはわかってる。大きなお世話だ」と言われそうだが、それでも続ける。
書きながら考えがまとまることもあるもんで。
まず、無思考だと注意力の欠如が起こり、マイナスの出来事が生じる。
路上で躓いてこけたり、足をテーブルの角にぶつけたり、確認不足のために仕事で失敗したりする。
これはいわゆる無思考である。失敗から学べばその対処法は見つかるし、それを実践すれば同じ間違いはしないはずだ。
それに、自分が置かれている状況を考えれば、自分が今どのような行動を取るべきか自動的に把握できる。
弾丸の飛び交う戦場を歩いているのに、無防備に姿勢よく歩く人間などいないだろう。
初めて訪れる地雷原を、大手を振って歩く人間もいない。
これは過思考ではない。ほとんど条件反射みたいなものだ。
一方、過思考の場合では、色々考えすぎて二の足を踏んでしまう。つまり、行動を起こす前から色々なパターンを想像してしまい、結局何もできずに終わってしまう。
例えば家にいるより外に出るほうがいやな目に合わなくて済むという考えも、過思考の1つだ。実際には起こっていない出来事を憂う。
確かに、外に出るより家にいるほうが、「イベント」の発生頻度は低い。
イベント自体の頻度が低ければ、そのイベントのせいで嫌な思いをすることもすくない。
例えば車を運転しなければ、マナーの悪い運転手が割り込んでくることもない。
典型的なことをいえば、外に出なければ嫌いな人間に会わなくて済む。
しかし、過思考の場合は、実際に発生していないイベントに、自分の行動を左右されているのだ。
外に出ても、今日はマナーの悪い運転手はいないかもしれない。
一般的には、仕事で外出するならいざしらず、友達と遊びに行く目的で外出したときに、嫌いな人間に会うほうことの方がまれだ。
過思考の一番の問題は、脳内で作り上げた可能性によって、実際の可能性を最小化していることだ。
人生は予想できない。公式もないし素振りもない。
経験は経験としてある程度の行動規範にはなるが、未来を予測する材料にはならない。
だからこそ、人事を尽くす必要があるのだ。人間には自分のできることを続けるしかできないからだ。
つまり、色々考えてみたところで、我々には色々なことが起こる。
しかし、過思考によって、そんなことが解消されることはないのだ。