物を買うとき、まず本当にそれが必要かを考える。しかし、必要だと判断した場合でも、即購入ということにはならない。僕は次に、その必要と思われるものは、他で代替できないのかを探ってみる。
例えば会社で使おうと思っていたメモ帳がほしいと思ったときだ。
電話がかかってきた際に、相手の名前や会社名を書きとめなければあらないが、書くものがないときにあわてないよう、メモ帳を用意しておこうと考えた。
で、いつもの手順に従って必要性の調査を開始する。
メモ帳は必要か?
メモ帳がないと、相手が誰なのかわからないケースが出てくる。
それでなくても電話は緊張するのに、その時メモ帳がなかったりなんかした日には、メモ帳探しに気を取られて、相手が何をいってるのか覚えてないくらいだ。その時に「◯◯商事の◯◯です」とか言われても、僕の記憶には残らない。
だから、常にメモ帳が用意されていることが必要となる。
じゃあ、次に「他での代替」はどうだろう。
僕はほぼPCの前で業務時間を過ごすことになる。WEBデザインやプログラミングの仕事では、脳内イメージを整理するためにノートを使う。ノートは常にカバンに入っているわけだ。
ということは、始業時に必ずデスクにノートを広げることで、メモ帳の要件を満たすことができる。
こうやって文章にすると大げさだが、「気づき」とかいうのはだいたいこんな手順を踏むようだ。
とにかくこれで、「出勤したらまずノートを出す」というフローを設けることで、メモ帳が必要なくなったわけだ。
そんな中、今回はさすがに代替が効かない必須アイテムを購入しなければならなくなった。
それは「靴」だ。つまり、会社へ履いていくクツ。
今履いているやつは3,000円くらいで買った安物なのだが、3年前に買って以来、無職期間中に半年のブランクはあるとしても、よく頑張ってくれたものだ。
それが最近の昼休憩散歩で寿命を迎えてしまい、見た目もボロボロだし、雨も染みこんでくるようになり、とうとう買い換えることにした。
しかし、会社に履いていけるようなクツは他に持っていない。いや、持っているには持っているし、実はそっちの方が高いクツなのだが、そのクツはコテコテの革靴で、長時間履くには疲れるし、足が痛くなるし、それを履いて散歩などとてもできない。
それ以外に持っているクツはスニーカーなので、代替はない。
それからもうひとつ買うものがある。
家のソファだ。
これは某通販サイトで6年前に購入した30,000円くらいのソファだが、スプリングが飛び出したりして座り心地が悪い上、最近座り方がおかしいのか、ソファに座ると首が痛くなる。
かといって、リビングにソファなしだとフローリングの上に寝っ転がるしかなくなるわけで、ソファは欲しい。
代替はといえば座椅子ぐらいか?
でも座椅子はないのでどのみち買わなければならず、結局自分の体にあうソファを、少々高くても近くの家具屋で買おうという結論に至った。
座り心地はボディーバランスに繋がり、最終的には自分の健康に跳ね返ってくるので、「贅沢なのでは?」と思っても、ここは妥協しないことにした。高いソファを買っても、その分食費を減らせばいい。実際減ってるし。
そこでゴールデン・ウィーク前半の連休に、クツとソファを買いに行った。
やっと外出する理由を得たという気分だ。
午前中から出かけていき、ケンタッキーで昼ごはんを食べ、靴屋と家具屋に行った。
途中で車に乗ったおじさんと一悶着あったが、なぜか僕は気にならない。
車に乗った僕が赤信号で止まっている時に、道路沿いの家から出てきたおじさんが、運転席からジェスチャーで「後ろに下がって道を開けろ」と言ってきたが、僕の後ろにはすでに後続車が並んでいたので、僕はほっといた。
すると、おじさんは無理矢理隙間に割り込んできて、僕に一言文句を言って通りすぎようとしたので、僕も言い返して、信号が青になったので車を走らせた。
これが昔だったら、「外出しようと思った日に、よりによってこんなおじさんが。嗚呼、なんて運が悪いんだ」と考え、もしかしたら外出を中止して家に帰るかもしれないところだが、なぜかその日は車内でおじさんに毒づいたら、それ以上は気にならなくなった。
いったいどんな心境の変化なのだろう。
以前僕は「運の悪さは自分の責任ではない可能性もある」ということを思いついたが、
ああいうおじさんが街に出れば、きっと災難を被る人が少なからずいるだろう。
そんな人が「嗚呼、自分は運が悪いんだ」と、その日を悲観するのは、損をしている気がする。
当のおじさんは我を省みることなどないだろう。
それなのに、なぜ災難を被った人が自分の不運を嘆かなければならないのか。
うん、やっぱりこれは時間の無駄だ。
一つの大前提として「この世はそういうものなのだ」という、一種の諦めが必要だ。
ああいう人間もいるし、それとは逆に、自分のために商品を探してくれる店員さんもいる。
障害者の駐車場に平気で駐車する人もいれば、
たまの休みに子供の手を引いて、一生懸命父親役を成し遂げようとする若いお兄さんもいる。
きっと彼は僕みたいに途中で何かを投げ出すこともなく、割り込みおじさんよりもっと非道なお客を相手にしながらも、家族を守るために必死で働いているのかもしれない。
こうやって冷静に考えてみると、こんな世の中でもがんばって生きている人の方が、「憎まれっ子」よりもはるかに多い。
彼らには特別な権力も財力もないかもしれないが、でも「多数派」なのだ。
今日は結局何も買わなかった。僕に合うクツはなく、座り心地が良くても高価過ぎるソファしか見つからなかった。
でも連休はまだ途中なので、また別の店に行ってみようと思う。