他人に依存しない

自分の行動を他人に依存しない。
つまり、損得勘定で行動しないということだ。

「あいつはあそこまでしかやらないから、ぼくもここまでしかしない」
「あの人がここまでやってくれてるんだから、わたしもやってあげよう」
「オレはこんだけやってんのに、なんでおまえは何もしてくれないんだ」

損得勘定は所詮自分だけに適用されるもので、実は他人は関係ない。
他人には他人の損得勘定(つまり都合)があるだけだ。
そんな他人に依存していては、自分の可能性を狭めてしまう。
他人は他人、自分は自分と割り切ろう。そして、損得勘定は実益に基づこう。例えば、「あいつがあそこまでしかやらない」ことで、あなたが実害を被っていなければ放置する。この場合の実害とは感情論以外の害。
その見極めが一筋縄ではいかないんだけどね。
ほんと感情とか邪魔だわ。

誤解するな

自分に苦手なことが一度できたからといって、早合点しない。
その場を乗り切るための一時的な神通力かもしれない。
人間誰にでも「得手不得手」はあるものだ。それを一様に「乗り越える壁」と信じて越えようとするのは、無駄な努力と同時に「個性」を否定することでもある。
「乗り越える壁」というのは、大抵本人にも「乗り越える壁」という自覚があるものだ。いや、はっきり自覚できるまでは逃げ回る。

なぜ人付き合いが苦手なんだろう。

それは「苦手」だという理由で止まってたから。克服するための努力を続けなかったから。
嘘だと思うなら、得意なことと比べてみればいい。していることの違いはなんだ?

何でも簡単にはできない。どんなことでも習得するためには困難が伴う。困難に立ち向かってこそ、得たいものを得ることができる。

しかし、本当に言いたいことはそこじゃない。
なにをやるにも困難が伴うなら、やりたいことをやればいいということだ。やりたいことであれば、その中に苦手な要素があったとしても、きっと手に入れられる。

ブログは認知療法の代わりになるか?

個人的にはなると思う。
最初は勢いに任せて「辛い」「しんどい」とか書き始めても、書いている途中で「あれ?」と思う。

その「あれ?」の最大のきっかけは、書いている最中に「悲観する必要がないじゃないか」と感じることだ。
もっと言うと以下のような感想。

「自分の責任ではない」
「不運のうちには入らない」
「あ、僕関係ないや」

結局思考は自己完結の世界で発生しているのだ。
実際、出来事の解釈は十人十色で数学的な正解などない。

「試練」は存在しない。
自らがそう課しているだけである。

「空元気も元気の内」←これは違う。これだと単に負の遺産が蓄積されるだけだ。
空元気とポジティブ・シンキングは違う。元気がないときはおとなしくしていればいいのだ。

まぁ何が言いたいかというと、過去の記事を見ても分かるとおり、マイナスの文章が、途中から冷静になっていることがあるということだ。考え方が変わったり。