「変化」について
ライフハッカーというサイトで、面白い記事を見つけた。
その一文を引用すると、
「変化」という言葉は幅広い意味を持っていて、多くのことを言い表すのに使われます。引っ越しや転職、あるいは、家族の死などのつらい経験。そうしたでき ごとには「良いこと」と「悪いこと」の両方があり、それぞれ内容は違いますが、毎日の生活のあり方を調整する必要が生じるという点は共通しています。その 調整は、例えポジティブなものであっても、ストレスの原因になるのです。逆に、ネガティブな変化がポジティブな結果につながるケースもあります。先のこと がどうなるのか、正確には決してわかりません。それがたいていの人を怯えさせるのです。ですが、変化にうまく対処することはできます。自分のものの見方を 調整し、「どんな状況でも乗り切れる」ことを知ればよいのです。
ということだ。
記事の最後の方で、「変化」への対処法は「変化」を受け入れることだと主旨のことが書いてある。
なんらかの変化のせいで精神的に苦しんでいる時には、楽観的に考えるなんてとうてい無理だ、と感じてしまうからです。しかし、それで良いのです。好きなだけ泣いて、モノを蹴とばして、わめいてください。
僕は読みながら「結局それかい」と苦笑してしまった。
「結局は耐えるしかないのか」と。
しかし、よく考えてみると、「耐える」のとはちょっと違うように思えた。
もしかして、「受け流せ」といっているのではないか。
ストレスは我慢せずに発散する。感情的な要因は速攻で吐き出せといっている。その上で、論理的に変化に対応すればよい。
さきほどの引用文は、次のように続いている。
そうしてから、新しい状況を、もっと楽しく、もっと過ごしやすいものにする方法を探しはじめれば良いのです。変化によって失われたものに固執していると、新しい状況が連れてきてくれるかもしれない良いものを楽しめなくなります。
変化も出来事の一つである。
進路について悩むのも、晩御飯に何を食べるか悩むのも、出来事としては同じなのだ。
変化が訪れ、道を選び、時には進路を修正して、結果を蓄積・分析し、次の変化に対応する。
僕らの仕事はそれだけだ。
我々は脳に洗脳されている。同じ事象の出来事も、まるで別の映画に放り込まれたような錯覚に陥る。
しかし、たとえ舞台設定や登場人物がかわっていても、物語の行程はだいたい似たようなものだ。
脳がセンセーショナルな演出をするおかげで、僕らはそれに一喜一憂している。
本来は気にしなくて良いことなのに、脳が勝手に作り出した幻影に翻弄されるのも悔しい。
今、僕は自分らしい生活を送っているとは言いがたい。
できれば世捨て人になりたいが、状況がそれを許さない。毎日何かしらに不満を覚え、見果てぬ理想を夢見ている。
しかし、もし理想の生活を手に入れたとしても、今の僕はその生活に満足できないかもしれない。
また些細なことに捕らわれて不満を抱え、「こんなはずじゃなかった」と思う恐れは十分にある。
つまり根本が違うのだ。不満を持つ次元が違うというのだろうか。
しかし、不満がなければ改善もない。
だから、とりあえず何も考えずに日々をすごす(毎回言ってるな)
そして、変化がやってきたら、まずストレスを発散してから、出来事について考え、解決策を見出そう。
変化の理由は考えるが、自分が原因でないとわかった場合は、それ以上理由を求めない。
理由は求めず解決策だけ考える。
なぜなら、自分で避けることができる変化もあれば、避けることができない変化もある。
そこに法則はないのだ。
また思いつくまま長文を書いてしまった。まぁ、いいか。