疑惑という渦 ~ 映画「ダウト」感想


先日「ダウト 〜あるカトリック学校で〜」という映画をBSで放映していて、それを録画してたのすっかり忘れてた。
録画データ整理してた時に見つけて、「あ、撮ってたんだ」と思いだして、まぁとりあえず的に見てみた。
あらすじとかの予備知識まったくなく見てたんだけど、久々に早送りしないで全部見た。おもしろかった。

ダウト(doubt)とは、英語で「疑惑、疑念、不信」という意味だそうだ。
まず、主な登場人物は以下の通り。

シスター・アロイシアス・・メリル・ストリープ
フリン神父・・・・・・・・フィリップ・シーモア・ホフマン
シスター・ジェームズ・・・エイミー・アダムス

あるカトリック系の小さな学校で、校長であるシスター・アロイシアスが、並立している教会の司祭でもあるフリン神父に、性的虐待の疑いをかけ、尚且つそれを徹底的(ここが肝心)に信じこむ。
その根拠は、シスター・ジェームズがフリン神父と男子生徒の様子がおかしいと、シスター・アロイシアスに告げたことから始まる。
ただし、物的な証拠は何もなく。状況証拠はどうとでもとれる内容だ。
そして、物語はシスター・アロイシアスが、フリン神父を追い詰めていく方向へ進んでいく。

これ以降は一部ネタバレあるのでご注意を。



この映画はそのタイトルが示す通り、常に「疑惑」がつきまとう。
一般的なミステリーのように、明快な答えが出ることはないので、観客としても疑いが晴れることはない。
つまり、すっきり系の映画ではない。

それなのに、何がわしを惹きつけたというと、役者の演技もさるものながら、
それ以上に、見ている私も「疑惑」に振り回されたということだ。
特に、キャラクターに対する印象。これは製作者側の意図なのかどうか、
とにかく登場人物全員に対する印象がひっくり返される。

まずはフリン神父。
映画の当初はこの人こそ神に見えてくる。
ところが、物語の途中で頭の上に「???」がつき始め、結局それは最後まで消えない。

次にシスター・ジェイムズ。最初はシスター・アロイシアスとの対比で「天使」っぽく映っていたが、
校長の疑惑をもたらした張本人であるにもかかわらず、途中からほとんどなげやりになってくる。
自分でも言っていたが、「これ以上巻き込まれたくない」という、いわば「事なかれ主義」というか、
自分で種を巻いておきながら、ことが重すぎて責任を背負いきれないのだ。
実際フリン神父が教会で「うわさ話」について説教をするシーンがあるのだが、
シスター・ジェイムズは自覚しているのかどうなのか「あれは特定の人に向けたお説教ですか?」と尋ねるシーンがある。
そして、最終的にはフリン神父に「私はあなたを信じます」と答えるが、「巻き込まれたくない」発言の後では、
たとえ「おもいやり」をもってしても、視聴者の心を打つほどには響かない。

そしてミラー夫人。
彼女は性的虐待を受けていると思われている生徒の母親なのだが、普通の母親だと思ったら大間違いだった。
シスター・アロイシアスと路上で話すシーンは度肝を抜かれた。「そう来る?」と実際に口走ってしまったほどだ。
しかし、彼女のような人間も、実は今でもいたりする。

最後はやはりシスター・アロイシアス。
メリル・ストリープの演技は、「プラダを着た悪魔」とは違う意味でモンスターだ。私はミランダよりシスター・アロイシアスのほうが数倍恐ろしかった。人格がというより、校長として。生徒は大変だろうなぁ。
彼女は彼女なりの正義を貫き通している。そして、自分が犯した罪についても苦しんでいる。
劇中で涙を流しているくらいだから、過去に色々あったのだろう。
しかし、それでも徹底的に自分の信念を歪めない。たとえ、神の意志に反するとしても。
物語中盤までは、「こいつはいくらなんでもやりすぎだろう。なんの根拠もないのに」と思った。
そのくせ、ラストシーンでシスター・アロイシアスとフリン神父が対峙をするシーンでは、
「もしかしたらシスター・アロイシアスが正しいのでは?」と思ってしまう。
ところが、終わった後で気づいたことがあって、
彼女のような手法は、今でも日本の警察や検察で行われているのではないか。
以前厚生労働省の村木さん冤罪事件にしても、最初から「こういう事件だ」という大前提があり、
それを元に捜査をすすめ、挙句には大前提に沿う証拠をでっち上げてしまった。
シスター・アロイシアスの疑念が晴れないので、結果論的な正否はない。
しかし、そこには歴然とした疑惑があり、それはどちらに転んでも、
関係者全員に負の遺産を残す。
この映画のテーマは疑惑だが、ただの疑惑ではなく、疑惑のままで突き進む人間の信念なのだ。
シスター・ジェイムス(あ、いやフリン神父だったかな?)に「なぜそこまでフリン神父」を疑うのかと問われたシスター・アロイシアスは、

「自分の体験から」だと答える。

しかし、それこそ疑惑の渦に引きずり込む罠なのだ。
改めて言うが、映画の中でフリン神父に対する疑惑を決定づける証拠は、何一つ出ていない!
それなのに、彼女は「経験」だけで疑惑を確信しているのだ。
普通の人間では、そこまで自信を持って人を疑いきれないだろう。
アマゾンのDVDについているコメントで、

「隣の子供が泣き叫んでいても、きっと子供のしつけをしているんだと思って警察に届けない。もし間違っていたらどうしようと思うから。」

みたいなことが書いてあった。文章は適当だけど。
つまり、単なる根拠のない疑惑は、疑惑を持たれた側はもちろん、持った側も不幸にしてしまう危険があるというわけだ。
たとえばもしこの映画で白黒はっきりしてしまうと、「やっぱりお前が悪者であなたは正しかった!」となり、疑惑の取り扱いの危険性がうやむやになってしまう。
この映画は、そのために「すっきりしない終わり方」になっているし、シスター・アロイシアスはラストで涙を流すのだと思う。

日本にも司法制度があり、裁判があり、裁判員制度がある。
そこも「疑惑」を生で扱う現場である。
そして、「疑惑」の取り扱いについてのマニュアルはない。
慎重であってしかるべきだ。

ちなみに、この映画の元ネタは舞台だそうだ。
ピューリッツァー賞やトニー賞など、評判が良かったらしい。
その舞台の原題が「Doubt: A Parable」という。
で、「Parable」の意味を調べて
みると、「噂話」という意味のほかに、
「宗教的なメッセージを伝えるために、イエスによって語られた話の総称」という意味もあるらしい。

思えば、教会で哲学的なことや道徳的なことを説教してもらう。
実際映画でも、学校の子供たちが説教を聞いていた。

私は無神論者(それどころか物理主義者!)だから、宗教バンザイ!の立場ではないが、
それでもああいう場所は必要なんじゃないかと思う。
特に、核家族化全盛期の現代は、おばあちゃんの知恵袋もないだろうし、
学校の授業で事足りるとも思えない。

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