映画鑑賞趣味娯楽

「偽りなき者」を見た感想(ネタバレあり)

見終わった直後。

一度見終わっただけなので、もしかしたら思い過ごしや思い違いがあるかもしれませんが、
とりあえず覚書として、記憶や感想が新しいうちに書き留めておきます。

まず言いたいことは、一度観たのでもう満足。

特に、主人公の飼い犬の話。
あのまま何事もなかったかのようなラストは、はっきり言って納得できない。
これはたぶん、監督の価値基準だと思う。
あのシーンは、単に観客の憎悪をかき立てるために挿入したのだと思うけど、
どうせなら人間でやってくれと思う。

まぁ、それと置いといて本題に入ると、
はっきりいってキャラクターの扱い方とストーリーの方がインパクト大きすぎて、
演技や技術的なことには、あまり意識が向かなかった。

この映画は大人の「無知」から来る貧弱な思考パターンを取り上げたものだ。
素人が疑惑を裁くと、こんな体たらくになるよという反面教師みたいな映画。
もう本当にあらゆるキャラクターが不快で仕方ない。
なぜその程度の情報で、人を裁くことができるのかと、見ている方が呆れてしまう。
主人公とその息子だけが(あとは最初から主人公側だった数人の大人)、まともなキャラクター。

念のため言っておくが、これは子供の嘘から発した物語じゃない。あの嘘は自然現象みたいなものだが、そこに火をつけたヒューマン・エラーこそが問題なのだ。
いや、ヒューマン・エラーというより、エラーなヒューマンだ。
「あんな無垢な子供が、嘘をつくわけない」という、心底唖然とするような何の根拠もない信念にしたがって、勝手に暴走する園長。
「おまえ本当に専門家か?」と叫びたくなるほどの露骨な誘導尋問を行う、園長の知り合い。
ちなみにこの知り合いは、その無知ゆえに自分が誘導尋問をしている自覚もなさげ。
そして、何の疑いもなく園長の言い分を信じる村の大人たち。
こんな人達が怒涛のごとく登場する。

でも主人公についても、クライマックスの行動はどうかと思う。
別に親友殴らなくてもよくね?と、見ながら思いました。
主人公の思いつめた心情を表現したかったのでしょうが、
それまでの主人公の描き方は、しっかりとした理性を有している人のそれだったので。
もしくは、「そういう人でも追い詰められると理性を失う」と言いたかったのでしょうか。
どちらにしても、ちょっと唐突感が否めないクライマックスでした。

そして、最後の最後で登場するシーン。ここで、主人公は狩猟のために森を歩いています。
そこである出来事が!!
まぁ、ネタバレ宣言してるからいいか。
どういう出来事かというと、森の中で主人公が狙撃されるのです。
弾丸は命中せず主人公は無事ですが、主人公の視界に走り去る人影が目に入ります。
つまり、明らかに狙撃者がいたのです。

これこそが、この映画の真髄です。
子供の嘘が露見し、疑惑は完全に晴れたにもかかわらず、
それを認めない人間がいるわけです。
まさに「自分の見たい現実しか見ない」人間。
繰り返しますが、冤罪は晴れているのです。
主人公が性的虐待を行った証拠が皆無どころか、完全に無実なわけです。
主人公の息子の狩猟免許取得をみんなが祝っているところを見ると、
主人公の親友は、自分の娘が嘘をついていたことを公表していると思います。
でなければ、主人公があそこまで村に受け入れられているとは思えません。
しかし、それでもなお、疑惑を持ち続ける大人がいるわけです。

そういう大人の思考パターンは、たいてい「感情」に侵食されています。
冷静で理論的な判断から生じるものではありません。
このうえなく理論的である「完全無実」「濡れ衣」「冤罪」という事実を覆すような思考パターンが、
狙撃者の中で構築されているということです。

この映画の唯一の救いは、主人公の息子。
親友の家に行く息子は、見ていてグッときた。

あー、あと一つ。
親友が主人公に「おまえは嘘をつくとき視線が泳ぐ」みたいなことを言い、
それが疑惑を増幅する結果になるのだけど、人は心理状態によって行動が変わるわけで、
あの嘘発見器にしたって、緊張状態によっては反応がでることもあるわけで、
素人が勝手に決めつけると、ろくなことにはならない好例。

最後にマッツ・ミケルセン。
この人は007のときから好印象なんですけど、今回の演技も素晴らしかったです。
表情に極端な落差がなく、喜怒哀楽の違いは微妙なんですけど、
スーパーのシーンや教会のシーンを見れば、心の内に秘めるエネルギーが見えてくるような、
感情の炎が伝わってくるようでした。
序盤の笑顔が次第に無表情になっていくのですが、
ふとしたことで、その無表情の中に感情が湧いてくる、そんな演技でした。

この映画を観ようと思ったきっかけは予告編でした。
予告編があったのでどういうストーリーからはっきりしていましたので、
それにどう決着をつけるのかに興味があったのと、
あとはマッツ・ミケルセンの演技を見たくて観た映画です。

けして見る価値のない映画ではないのですが、
はたしてこの映画に出るような大人がこの映画を観たとしても、
「自分の何が悪いのか」までは理解できないかもしれません。
それが残念でなりません。
うわさ話や思い込み、先入観や歪んだ正義は、すべて「無知」から始まります。
そして、「人間は見たいと望む現実しか見ない」というカエサルの名言が示す通り、
真実がそこにあったとしても、人間は「なかったこと」にできるわけです。
人を責める人は、たいてい自分も同じことをやっていますが、
そこには彼らなりの言い訳が存在しており、自分の行為は正当化されます。

なんか、この記事をスッキリ綺麗に終わらせる方法がわからなくなりましたので、
いったんここで終わります。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。