タイトル考えるの面倒なほど支離滅裂

欲しいものがある。

まずPC。今持ってるのは古過ぎて動作遅すぎ。PCはimacが良い。

あとソフト。adobe csが欲しい。design standardで良い。でも高い。

さぁて、金稼がないとな。どうやって???金のためだけに仕事するなんて無理なのに。
適応できる職種が限られるのも困ったもんだ。
ほっとけ。何が悪い。世の中色んな人間がいるんだ。
あんたみたいにできない人間が、人間的に劣ってるとおもったら大間違いだよ。
あんたみたいにできる人間は、その部分だけ長けてるだけだ。

うん。一歩間違えたらただのヒガミだな、こりゃ(笑)
何かできる才能を持っているのはいいことだ。

まぁ一人愚痴はこのくらいにしておいて、欲しいものなんだけど、
今すぐ買わなくても、今持ってるものでなんとかなるから困ったもんだ。
買えば作業は快適になるけど。

で、最終的には「ま、いいや」となる。
最近の志向パターンはいつもこう。
なんかこれって、気にならなくなったとかじゃなくて、無気力方面に落ちていってるだけのような気がする。

いや、考えるのはやめよう。
考えなくてもできることが、今自分のやりたいことなのだ。
作業しろ!仕事しろ!望みを叶えろ!
動け動け動け!

ってなわけで、今日仕事が終わったら本買いに行きます。
こないだネットで買ったものとは別の本で、まさに「こんな本欲しいなぁ」と思ってたやつでした。

でも、まずは本屋で内容確認して、自分のやりたいことが実際に書いているか確認しよう。
で、「うん、使える」ということであれば購入しよう。

気がつけば、今週の労働日も今日を除いて後1日。
願わくば今の僕の行動が、未来の好転につながってますように。

こなす日々

淡々と過ぎていく。
心をどこかに置いてきたのかと思うくらい、何も感じない。
何も感じないと、何も書くことがないから困ったものだ。
最近はノート一冊買うのも躊躇する。
無駄になることを恐れている。
そのくせ、昼ご飯は高いもの食べたりする。
あ、そういえば昨日ネットで本買ったんだった。
なんなんだ、いったい。

今日は比較的仕事した。
誰に逆らうこともなく。

いまだ生きる楽しみわからん。
人々は何が楽しくて生きているのか。結局死んでゼロになるのに。

いやいや、「記憶に残る」とか「子孫を残した」とか言わないでよ。
死んだらそんなこと関係ないし。

ぼくが生きている理由で、最も新しいものはこれだ。

「ただいま<ぼく>を体験中」

これで少し冷静になれた今日この頃。

出来事は出来事として受け入れる。
出来事が起こる理由は分からない。
自業自得なら、理由は一目瞭然だから、対処できる。

でも、どうにもならないことは、やっぱりどうにもならないので、考えるのをあきらめて、とりあえず次を目指す。
そうすれば、その出来事が活きてくる日もあるかもしれない。

とにかく今は淡々と生きる。
そういう生き方を、自分の脳に染み込ませている。
今はそんな期間なんだと思う。

身体が資本

運動しないとなぁ。身体動かさないと、不要なものが体内で滞留しているような気がする。
仕事もデスクワークだし。
体力があったら、もう少し活動的になれるかもしれないしな。
しかし、スケジュールを決めないと長続きしないから、生活ルーティンにしっかり組み込まないといけない。
例えば休みの日は○時間を運動に費やすとか。
散歩は増えたけど、これはあまり体力づくりに役立たなさそう。
やっぱりある程度の負荷は必要なのだ。

思考について

自分の人生に思考が向かうのは、きっと人生に退屈しているんだと思う。
脳は元来刺激を求める。だから何も考えていないときなど、隙があれば脳は余計な思考をさせようとする。
そして、思考は癖になる。例えば何か外部刺激があって、それに起因するスイッチがいくつかあるとする。
どのスイッチを押すかは、ある程度自意識でコントロールできるのだが、何度も同じスイッチを押していると、いつのまにかある外部刺激に対して、同じそのスイッチを押すことが癖になってしまう。

それは、ポジティブ思考やネガティブ思考に関わらない。

だから基本は、常にポジティブであること。

そして、思考を他人に左右させないこと。
他人が一番操りやすい人間は、思考を自分でコントロールできない人間なのだ。
その典型的な先方に、相手を怒らせて冷静さを失わせるというのがある。
その先方に乗らないためには、まず感情と思考を切り離す。

「バーカ!バーカ!プゥ!」と言われて(あ、こいつはオレを怒らせようとしてるな)とか思うことで冷静さを保つのではなく、実害のない刺激には反応しないことが大切なのだ。

例えばここで「バーカ!バーカ!プゥ!」といわれて命の危険が脅かされるとか、生活に必要な稼ぎがフイになるとかであれば、それはまったく反撃してもやぶさかではない。

そういうものだ。

って、思いつくままに書いただけだから、後で整理します。ハイ。

他人は映画の登場人物だと思うことにする

わが社の代表には手を焼く。
「まったく、なんの因果でこんなめんどくさい人間の会社に就職したのか?」と思う。
これも立派な不運なんじゃないかと。

しかし、この世は自分の力でなんとかなるものもあれば、いくら努力しても警戒しても、どうにもならないことだってある。
代表の存在(もしくは縁)もその一つ。

だから、僕は今日から、他人を映画の中の登場人物だと思うことにする。
同じ画面の中で上映されている映画というわけだ。
映画の登場人物と思えば、嫌いな人間だからといって、映画監督に「なんであんなやつ登場させるんだ!」と文句をいうわけにはいかない。

また、登場人物だと認識することによって、僕は単なる傍観者になれる。
たとえ僕がよけいな仕事を振られても、実害がなければ気にしない。
映画に出てくる登場人物でも見るように、「アホな人だ」とか感想を、脳内でつぶやいたりする。
そして、そこから学べるものがあれば、自分の人生に生かしてみる。

たとえばブラック企業に勤めてしまって、精神衛生上よくないと感じれば、
仕事は辞めつつ「妙な会社だ」という感想を脳内でつぶやく。

なぜ自分がそんな会社に就職しなければならなかったのか?

この映画はなんでもありなんですよ、お客さん。

いやいや、話がそれてきた。
何がいいたいかというと、出来事をそのまま解析すればいいだけで、そこに「他人に対する自分の感情」がからむと、冷静な判断ができなくなる。