天国とはどんなところだ?

今日懐かしい友人に会った。
たぶん5~6年ぶりぐらいの再会だと思う。
しかし、彼は全く変わっていなくて、笑顔も声も昔のままだった。

それはそうと、懐かしい友人が
帰ってきたということで、共通の仲間で集まろうという話になったのだが、そこからが大変だった。なかなかみんなの都合が合わないのだ。
日時をパズルのようにいじくり回してもダメ。結局未だに会合日は決まっておらず、懐かしい友人は時間切れで本来の居場所に帰って行くことになってしまった。

そこでふと思った。
「これが天国だったら、スムーズに決まっていたんだろうか。いや、そもそも天国とは、何をもって天国なのか?」

この世はとても天国には見えない。
なぜなら理不尽や不条理が日常に氾濫しているからだ。
この世では努力によって不公平を正すことはできない。一人の人間が持つ力は、悲劇的に弱く、正義が常に勝利するとは限らない。

ならば、天国ではすべては公平なのだろうか?
あっちが立ってこっちが立たないということはないのだろうか。
憂いのない日々を送ることが、実際に可能なのだろうか?
今回は仲間内の都合が合わなかったわけだが、そんな微細な理不尽さえ、天国では克服できるのだろうか。

もうほとんど仏教哲学の分野だが、そんな理不尽にすらこだわらない先に、本物の平安があるのだろうか。
であるなら、人間が日常の中で続けて行く進化の先は、天国ではないのだろうか。

しかし、それはちょっと寂しい。
願わくば、人間の進化がこの世の不条理や理不尽を克服して、みんなが安寧に暮らせる世界を作り出すことができれば、わたしも生きている甲斐がある。
わたしがこの世に残す痕跡が、たとえ微細な指紋だとしても、それが進化の道筋に影響を与えるかもしれない。
であればこそ、個人的な精進も無駄にはならないと考えれば、少しは救われるかな。

きっと現代人はこの言葉を聞きたがっているんだと思う。
曰く「君の人生は無駄じゃない」

不自然な無理をしない

物事を無理やり進めてもうまくいかない。それどころか、負の反動がある場合もある。

夢を追いかける場合も、まずは自分の日常生活を営みながら、その生活の中でできることをする。
もし天命があれば、その努力は報われる。
ただし、どのタイミングであきらめるかは本人の自由。あきらなくても全く問題ない。

次の課題は、天命とは何か?
これを擬人化せずに納得できる説を考えたいと思う今日この頃。

おわり

今日の総括

信念を貫け!
感情に溺れるな!

一度決めたことなのに、なぜか決めた通りの行動を取れないことがあるが、それは大抵感情に流されたことが原因だった。

感情はきっと災いなんだと思う。
いい影響をもたらす場合もあるのかもしれないが、副作用が洒落にならないほど悪影響を及ぼす。
人間としての進化の第一歩は、感情をコントロールすることから始まるのかもしれない。

今日の事だけ考える

朝起きて、今日することを考える。
明日以降は気にしない。
予定を立てないという意味じゃなくて、未来の事を思い悩まないということ。
人生は事業計画とは違う。
利益の事は考えなくていいのだ。

友達

今日は午前中から大忙し。
朝は前の職場の友達と会い、夜は学校の友達と会った。
最近は気持ちが下降気味だったけど、友達と他愛もない話をしただけで、元気を分けてもらったように気持ちが軽い。

その友達も言っていたけど、気持ちが落ちている時は、無理矢理でも外に出て、人と会った方がいいそうだ。
もちろん、会う相手は慎重に選ばなければならないが、元気を分けてくれる相手であれば、きっと気持ちも楽になる。
具体的に言うと、悲壮感が消え楽天的な余裕がでる。
そしてなにより、気が紛れる。
友達とは、やはりただの知り合いと違う。縁でつながる人々は、自分の人生に欠かせない守護者でもあるのだ。
ありがたいことだ。

他人との共存は、確かに自分のペースで進まなかったり、自分の価値観と合わなかったり、自分を押し殺さなければならない時もあるだろう。
しかし、民度の高さが秩序と自己主張のバランスに依るように、自我を抑制することで得られる縁は、人生を豊かにする。
その場合の抑制とは、ストレスを伴う我慢ではなく、友人を尊重する心だ。
そう思える相手だからこそ、きっと友達でいられるのだろう。

僕はまだまだ未熟で未完成だが、彼らはこんな僕の友達でいてくれて、こうやって誘いの連絡をくれるのだ。
「いやー、ちょっと気が乗らないから」と断るなんてもったいない。