お金と経験値

買い物がどうとかいうのは、結局貧乏が悪い。だって、いいものを選ぶためには、ある程度の経験値が必要だ。
実際、品物を何度も店に足を運んで、品物を触りつくして決めた商品でも、しばらく使ってみると「欲しかったのはこれじゃない!」という結論に達することがある。こればっかりは実際に使ってみるしかない。
金がないならないなりに、よく吟味して買うようにしているが、それでも100%当りということはない。そういう場合は購入資金が無駄になるわけだ。家に置いていても邪魔になるものは、売るか捨てるしかない。
しかし、経験値を得たと思えば、購入資金も丸々無駄になったわけではない。

そんなことを考えていたとき、ふと思い当たった。
ということであれば、右往左往してきた僕の人生は、それなりに経験値は貯まっているんだろうか。

いや、それでもたまには買い物したい。
より良い環境(書斎とか)を求めてなにが悪い。

Dream Fighter

強い人になりたい。
感情に左右されない人に。

思慮に富み理性的で、情緒は豊かでも、感情をむき出しにすることはなく、慈悲深く、奢らない冷静さをもち、客観的で私欲を感じず、ただ他者に対して誠実でありたい。
自己嫌悪も自己顕示もうんざりするほど繰り返してきた。
そろそろ、感情に起因する非建設的な思考メカニズムから解放されたい。

しかし、「他人のせいで感情が刺激されるなら、もう他人と関わらないようにする」と、街を飛び出して世捨て人になったとしても、結局は「今」の自分を保持したままなので、根本的な解決にはなっていない。
冷凍しただけでは殺菌したことにならないのと同じように、問題点を先送り(またはみて見ぬ振り)しているだけだ。

要は克服することだ。
そして、きっと克服できるはず。
なぜなら、克服しなければならないことに気づき、「克服したい」という意欲が芽生え、そのための手法を自分なりに考え始めたから。
障害は克服できるからこそ存在する。perfumeがdream fighterで歌っているように。

♪最高を求めて終わりのない旅をするのは
きっと僕らが生きている証拠だから
もしつらいこととかがあったとしても
それは キミがきっとずっとあきらめない強さを持っているから
僕らも走り続けるんだYEH!
こぼれ落ちる涙も全部宝物oh! YEH!
現実に打ちのめされ倒れそうになっても
きっと前を見て歩くDream Fighter ♪

ニーバーの祈り(Serenity Prayer)

神頼みは好きじゃないけど、純粋な祈りには荘厳を感じます。
なんというか、日々の儀式のようなものです。

いい祈りを見つけました。「ニーバーの祈り」というらしいです。
元々の出自は「ラッキーマン」という、マイケルJフォックスの自伝でした。
彼は若年性パーキンソン病という難病を患いながらも、懸命に生きている人です。
その彼が日々この祈りを口にしているそうです。
ではまずは原語で。
ちなみに何種類かあるようなんですが、ここでは個人的に一番言いやすかった方を乗せます。

O God, give us serenity to accept what cannot be changed,

courage to change what should be changed,

and wisdom to distinguish the one from the other.

では次に和訳です。wikipediaから拝借しました。

神よ、変えることのできないものについて、
それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。

変えることのできるものについては、
それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。

そして、変えることのできるものと、変えることのできないものとを、
識別する知恵を与えたまえ。

僕も全文暗記して、毎日祈ってみようかなと思います。

他人を非難したり責めたりするのは無意味

他人を責める。非難する。
これらをやめる。
色々理由はあるんだけど、まずなにより、責めて非難して怒っても、全くなんの解決にもならない。
それだけでも十分理由になるくらい無駄。
いや、無駄どころかマイナスだ。非難した後で非難したことを悔やんでる。アホだ。

じゃあどうする?
責めない。非難しない。
そして、怒らない。これ重要。
これらについては、相手の正否は関係ない。相手が正しかろうが間違っていようが、責めない、非難しない。怒らない。

さて、できるかな~

理由を求めない

宗教に依存していない人ですら、出来事に対して理由を求める。
もしくは言い訳にする。

「なんでわたしにこんなことが起きるの?」
「なぜ今日に限って悪いことが立て続けに起こるの?」
「なぜ何をやってもうまくいかないの?」

久しぶりにうちの会社の代表の話をすると、
例えば競争入札で仕事を取れなかったとしたら、それは「災難」なのだそうだ。
だから、いつも以上にゲンを担いだり、神頼みをしたりする。
そんなことは全くの検討はずれだ。だって検証できないのに。

「人事を尽くす」とは、そういうことじゃないと思う。
無意味にアタフタすることでもなく、神頼みに走ることでもない。

例えば1分間で100個の漢字を覚えないといけない場合、
1分間をフルにつかって漢字を覚えようとする人と、
最初の30秒を覚えるのに使って、残りの30秒を神頼みに使う人では、
どちらが有利なのだろう。
神頼みをする人が恐れているのは、例えば「30個書いた時点でペンのインクがなくなってしまう不運」とか、「50個書いた時点で天井が崩れ落ちたらどうしよう」とかだろうか。

会社の代表がよくいうのは「前回の入札で横やりが入って、別の会社に仕事を持っていかれた」ということらしい。
そういうことは自分ではコントロールできないので、神様をお参りするのだそうだ。
こういう人はきっと山崎豊子の「不毛地帯」とか読んでないんだろうな。

僕が思う神頼みは神事だ。人々が豊作祈祷したり、日々の平安を神に感謝したりする。
神事の前提にあるのは、人間である自分たちが未熟者だという自覚がある。
けして、神頼みをすれば、自分に都合の悪いことは起こらないということではないのだ。

事実、神頼みをしていても現在までの競争入札は連戦連敗だし、その理由は明らかに企画力不足だ。
しかし、代表の神頼みはエスカレートしている。社員への給料は滞るのに、神頼みに必要な消耗品は買い捲る。
間違った信念が狂気に向かっているのだ。まさにアーサー・ケストラーが「機械の中の幽霊」で言っていたことだ。

人事を尽くすということは、日々精進するということだ。
天命を待つということは、「どうにもならないことは気にしない」ということだ。つまり、精進すること以外にすることはないのだ。裏を返せば、精進すること以外に心配することはないのだ。

そして、発生した出来事にいちいち理由を求めない。
省みることや正すべきことがあるなら、それを実施すればいい。

とにかく理由を求めない。