BootStrapでcontainerの幅を変更する方法

レスポンシブWEBデザインを手軽に実現できるツールとして、BootStrapは大変助かってます。
あれだけ少ないコードの量で済むので、作業がとても楽なのです。
まぁ、ソース全体でみれば、bootstrapのライブラリ分があるので、サイトの重さ的には変わらないと思いますが。

さて、そこでデザインの話に行くわけですが、レスポンシブは基本可変グリッドを使うわけですけども、その際bootstrapでは、containerというクラスを使うと、ページの左右に余白を作ることができます。ただ、私としてはもう少し余白が欲しかったので、レスポンシブを維持したまま、PCビューの際は固定レイアウトのように、左右の余白を大きめに取れないかなと、色々調べてみたところ、container-fluidというクラスを使えば、要件が実現できることを知りました。

<使い方>

まず、現在「container」クラスを使っているところを、「container-fluid」に変更します。

そして、CSSで下記のように「container-fluid」を定義します。

.container-fluid {
margin-right: auto;
margin-left: auto;
max-width: 900px; //例えば
}

 

<参考サイト>

bootstrap – 固定レイアウトと可変レイアウト

以上、どうぞお試しあれ。

天国とはどんなところだ?

今日懐かしい友人に会った。
たぶん5~6年ぶりぐらいの再会だと思う。
しかし、彼は全く変わっていなくて、笑顔も声も昔のままだった。

それはそうと、懐かしい友人が
帰ってきたということで、共通の仲間で集まろうという話になったのだが、そこからが大変だった。なかなかみんなの都合が合わないのだ。
日時をパズルのようにいじくり回してもダメ。結局未だに会合日は決まっておらず、懐かしい友人は時間切れで本来の居場所に帰って行くことになってしまった。

そこでふと思った。
「これが天国だったら、スムーズに決まっていたんだろうか。いや、そもそも天国とは、何をもって天国なのか?」

この世はとても天国には見えない。
なぜなら理不尽や不条理が日常に氾濫しているからだ。
この世では努力によって不公平を正すことはできない。一人の人間が持つ力は、悲劇的に弱く、正義が常に勝利するとは限らない。

ならば、天国ではすべては公平なのだろうか?
あっちが立ってこっちが立たないということはないのだろうか。
憂いのない日々を送ることが、実際に可能なのだろうか?
今回は仲間内の都合が合わなかったわけだが、そんな微細な理不尽さえ、天国では克服できるのだろうか。

もうほとんど仏教哲学の分野だが、そんな理不尽にすらこだわらない先に、本物の平安があるのだろうか。
であるなら、人間が日常の中で続けて行く進化の先は、天国ではないのだろうか。

しかし、それはちょっと寂しい。
願わくば、人間の進化がこの世の不条理や理不尽を克服して、みんなが安寧に暮らせる世界を作り出すことができれば、わたしも生きている甲斐がある。
わたしがこの世に残す痕跡が、たとえ微細な指紋だとしても、それが進化の道筋に影響を与えるかもしれない。
であればこそ、個人的な精進も無駄にはならないと考えれば、少しは救われるかな。

きっと現代人はこの言葉を聞きたがっているんだと思う。
曰く「君の人生は無駄じゃない」

「偽りなき者」を見た感想(ネタバレあり)

見終わった直後。

一度見終わっただけなので、もしかしたら思い過ごしや思い違いがあるかもしれませんが、
とりあえず覚書として、記憶や感想が新しいうちに書き留めておきます。

まず言いたいことは、一度観たのでもう満足。

特に、主人公の飼い犬の話。
あのまま何事もなかったかのようなラストは、はっきり言って納得できない。
これはたぶん、監督の価値基準だと思う。
あのシーンは、単に観客の憎悪をかき立てるために挿入したのだと思うけど、
どうせなら人間でやってくれと思う。

まぁ、それと置いといて本題に入ると、
はっきりいってキャラクターの扱い方とストーリーの方がインパクト大きすぎて、
演技や技術的なことには、あまり意識が向かなかった。

この映画は大人の「無知」から来る貧弱な思考パターンを取り上げたものだ。
素人が疑惑を裁くと、こんな体たらくになるよという反面教師みたいな映画。
もう本当にあらゆるキャラクターが不快で仕方ない。
なぜその程度の情報で、人を裁くことができるのかと、見ている方が呆れてしまう。
主人公とその息子だけが(あとは最初から主人公側だった数人の大人)、まともなキャラクター。

念のため言っておくが、これは子供の嘘から発した物語じゃない。あの嘘は自然現象みたいなものだが、そこに火をつけたヒューマン・エラーこそが問題なのだ。
いや、ヒューマン・エラーというより、エラーなヒューマンだ。
「あんな無垢な子供が、嘘をつくわけない」という、心底唖然とするような何の根拠もない信念にしたがって、勝手に暴走する園長。
「おまえ本当に専門家か?」と叫びたくなるほどの露骨な誘導尋問を行う、園長の知り合い。
ちなみにこの知り合いは、その無知ゆえに自分が誘導尋問をしている自覚もなさげ。
そして、何の疑いもなく園長の言い分を信じる村の大人たち。
こんな人達が怒涛のごとく登場する。

でも主人公についても、クライマックスの行動はどうかと思う。
別に親友殴らなくてもよくね?と、見ながら思いました。
主人公の思いつめた心情を表現したかったのでしょうが、
それまでの主人公の描き方は、しっかりとした理性を有している人のそれだったので。
もしくは、「そういう人でも追い詰められると理性を失う」と言いたかったのでしょうか。
どちらにしても、ちょっと唐突感が否めないクライマックスでした。

そして、最後の最後で登場するシーン。ここで、主人公は狩猟のために森を歩いています。
そこである出来事が!!
まぁ、ネタバレ宣言してるからいいか。
どういう出来事かというと、森の中で主人公が狙撃されるのです。
弾丸は命中せず主人公は無事ですが、主人公の視界に走り去る人影が目に入ります。
つまり、明らかに狙撃者がいたのです。

これこそが、この映画の真髄です。
子供の嘘が露見し、疑惑は完全に晴れたにもかかわらず、
それを認めない人間がいるわけです。
まさに「自分の見たい現実しか見ない」人間。
繰り返しますが、冤罪は晴れているのです。
主人公が性的虐待を行った証拠が皆無どころか、完全に無実なわけです。
主人公の息子の狩猟免許取得をみんなが祝っているところを見ると、
主人公の親友は、自分の娘が嘘をついていたことを公表していると思います。
でなければ、主人公があそこまで村に受け入れられているとは思えません。
しかし、それでもなお、疑惑を持ち続ける大人がいるわけです。

そういう大人の思考パターンは、たいてい「感情」に侵食されています。
冷静で理論的な判断から生じるものではありません。
このうえなく理論的である「完全無実」「濡れ衣」「冤罪」という事実を覆すような思考パターンが、
狙撃者の中で構築されているということです。

この映画の唯一の救いは、主人公の息子。
親友の家に行く息子は、見ていてグッときた。

あー、あと一つ。
親友が主人公に「おまえは嘘をつくとき視線が泳ぐ」みたいなことを言い、
それが疑惑を増幅する結果になるのだけど、人は心理状態によって行動が変わるわけで、
あの嘘発見器にしたって、緊張状態によっては反応がでることもあるわけで、
素人が勝手に決めつけると、ろくなことにはならない好例。

最後にマッツ・ミケルセン。
この人は007のときから好印象なんですけど、今回の演技も素晴らしかったです。
表情に極端な落差がなく、喜怒哀楽の違いは微妙なんですけど、
スーパーのシーンや教会のシーンを見れば、心の内に秘めるエネルギーが見えてくるような、
感情の炎が伝わってくるようでした。
序盤の笑顔が次第に無表情になっていくのですが、
ふとしたことで、その無表情の中に感情が湧いてくる、そんな演技でした。

この映画を観ようと思ったきっかけは予告編でした。
予告編があったのでどういうストーリーからはっきりしていましたので、
それにどう決着をつけるのかに興味があったのと、
あとはマッツ・ミケルセンの演技を見たくて観た映画です。

けして見る価値のない映画ではないのですが、
はたしてこの映画に出るような大人がこの映画を観たとしても、
「自分の何が悪いのか」までは理解できないかもしれません。
それが残念でなりません。
うわさ話や思い込み、先入観や歪んだ正義は、すべて「無知」から始まります。
そして、「人間は見たいと望む現実しか見ない」というカエサルの名言が示す通り、
真実がそこにあったとしても、人間は「なかったこと」にできるわけです。
人を責める人は、たいてい自分も同じことをやっていますが、
そこには彼らなりの言い訳が存在しており、自分の行為は正当化されます。

なんか、この記事をスッキリ綺麗に終わらせる方法がわからなくなりましたので、
いったんここで終わります。

久しぶりのDVD借りてみた

借りたのは以下のとおり。

  • ゼロ・グラビティ
  • アメージング・スパイダーマン2
  • エリジウム
  • ロボコップ(2014年版)
  • 偽りなき者

このうち、偽りなき者以外は見終わった。
金曜の夜に2本。土曜に2本という割合。
で、感想ですけど、ゼロ・グラビティが一押し。
それ以外はハズレ。

最近は手持ちカメラが流行っているんだろうか。
イリジウムもロボコップも手持ちカメラが多用されてた。
たぶん、ドキュメンタリーみたいな雰囲気を出したかったのだろうが、
まったくもって逆効果。
長回しならまだしも、カット割りも多いから全然落ち着いて見られない。
エリジウムは今や使い古されたネタだし、
ロボコップはオリジナルほどインパクトはなかった。

アメージング・スパイダーマン2は、ストーリー展開が早すぎて、
感情移入がついていけなかった。
そもそもグエンの件は、コミック発行当時に巨大なインパクトを与えた大事件だったらしいのだが、
映画ではどうもピンとこない。
もう少しグエンとピーターのやりとりを丁寧に描ければいいのに、
そのセンセーションをエレクトロが持って行っちゃった感が残念。
むしろ、ヴィランはグリーン・ゴブリンだけでよかったような気もする。
あと、父親との件も次回でよかったと思う。テーマが増えすぎ。

そしてゼロ・グラビティ。
これはアカデミー賞とっただけあって、よく出来ている。
今回見た4本の中では、一番丁寧にストーリーを描いていた。
だからこそ、見ている方もキャラクターについていくことができた。

さて残るは「偽りなき者」
日曜日にじっくり観ようと思います。

 

追記。

ゼロ・グラヴィティについてネットサーフィンしていたら、
この映画にいろいろ突っ込みどころがあることがわかった。
特にNASAの協力拒否(「岡田敏一のエンタメよもやま話」より)には吹いた。

そりゃまぁ怒るよね。
NASAの言い分は、「実際はあんなジェットコースターみたいな災難のオンパレードにはならない」っていうことらしいし。

あ、これなんか歴史の取り扱いと似てるな。
事実かどうかという問題を検証するより、「出来事」を可能性として取り扱い、その上で今後その「出来事」が起こらないように対策を考える上で、歴史から学ぶ。
ということだろうか。
で、NASAは「だから!対策してるから!」って怒ってるんだと思う。
確かに予備知識を仕入れた後で再考すれば、突っ込みどころは満載だった。
特にサンドラ薄着なところとか。

でも、純粋にサンドラの帰還はドラマチックだったし、
ストーリーテリングに関しては、あのシンプル感が自分の好みであり。
まぁ、いいか。