RPGでレベルアップするために戦いまくるのが苦手

ゲームは全般的に苦手なんだけど、特にRPGが苦手。
レベルアップしないと次のステージにいけないでしょ。行ってもこてんぱんにやられるだけ。
でも、レベルアップするためにはひたすらモンスターと戦わないきゃいけない。それが嫌だ。

…といっても、「レベルアップのためにモンスターを殺しまくるなんて非道い!」なんていうメルヘンチックな理由ではなくて、単純に退屈だから。同じ作業の繰り返しだからね。

たとえば、何か職人技を習得しようと思うとき、修行期間が10年とかいわれると気絶しそうになる。
マトリックス(映画)みたいに、瞬時にダウンロードとかできたらなぁと思うくらいです。

で、話は変わって私生活。
今はとてつもなく退屈でつまらない日が続いていますが、実はこれもレベルアップのための戦いなのかもしれません。
戦っている相手は沢山います。
容赦なくやってくる日々。出会う他人。数々の出来事。未熟な自分。
これらすべてと戦っているわけです。

昼休憩の散歩

昼食はおにぎりとほうれん草のバター炒め。
おにぎりといっても梅干と青菜のみじん切りが練りこまれていて、結構デカイ。
ほうれん草のバター炒めも、5口くらいで食べ終わる量だが、ポークの数片入っていて、卵で和えてある。おやつにサンドイッチの残り半分を食べるで、昼はこれくらいでちょうど良い。

で、軽い昼食はあっという間に終わり、昼休憩はいつも30分以上時間が余る。
そこで会社の近辺を散歩するわけだ。
最近は天気も良く気温も適温。散歩にはもってこいの日和だ。今まで歩いたことのない道をわざと選んで、適当に歩く。

時々迷子になりかけて午後の業務に遅れたりもするが、
そんなことは気にしない。3分遅れたからって何が変わるってんだい。

散歩は良い。
知らない道は面白い。
動くと暖かい。
坂道を行けば、運動にもなる。
なにより、散歩中は何も考えない。景色に気を取られているのだ。
一日中デスクワークの身には、大変貴重な時間になってます。

この世、人間、時間、重力

頑張っても報われないこともある。
正義が負けることもある。
正しいと信じていた事が実は違うこともある。
弱肉は強食される。
理不尽で金が集まる。

行動的な無神経が、
受動的な繊細より優れているというのなら、
この世は何を目指しているのか。

世間が「逃げた」という烙印を押した人々こそ、本当は勇者なのかもしれない。
ここは戦場なのだ。
いずれは消えてなくなるのだ。

かつてガリレオを否定した人間たちがいたように、
我々もまた未熟で盲目で、
常に何かを犠牲にしながらその鎖を繋いでいるが、
それは真理ではない。

世の中には、たとえ道が閉ざされると分かっていても、戦場から脱出を試みる人だっているのだ。

昔、沖縄戦を舞台にしたドラマがあって、
主人公役の明石家さんまが、
負傷した米兵を射殺しろという上官の命令を拒否して、
逆に上官から撃ち殺されるシーンがあった。

現代を生きるということは、あの時米兵を射殺することと同じなんじゃないだろうか。

みんな傷だらけなのに、
なぜ、次の日にはその傷が癒えるのか?
癒えているのか?
癒えてないけど、痛みを感じないだけなのか?

生き方を変える時だ。
いったい何に執着しているのか。
夢の中で自分を縛る重力と、
現実の重力の違いはなんだ?

色々

取り繕っても理由つけても、つらいものはつらい。
でも、今は足を前に出す以外にない。
たとえ他に選択肢があったとしても、一歩を踏み出す力があるなら、力がなくなるまで踏みだして行くしかない。

なぜ?

知るか、そんなもん(`_´)

晴天

今日は天気が良かったのでほぼ家事に費やした。
特にキッチン周りを念入りに。

我が家は物が多すぎる。
減らしたい。
もっとシンプルに生活したい。
ストックなんていらない。

車で1時間ほど北上したところに、お気に入りの公園がある。
ビーチに併設されている公園で、屋根付のテーブルがあり、そこに座って持参のアイスコーヒーとか飲みながら、絵を描いたり本を読んだり音楽を聴いたりするのが好きだった。

でも、もう2年以上行ってない。
「行ってもどうせ何も変わらない」
「行ってもどうせ帰ってこなくてはならない」
「行くだけ無駄」
そんな思いが強すぎて、とても足を運ぶ気にはならなかったが、
来週辺り行ってみようかと、掃除をしながら思った。

今日は家の近くでライブをしてた。
商業施設に設営された臨時のステージで、若い女の子が歌を歌ってた。
その音が家まで届いて少々うるさい。
でも彼女は一生懸命だ。近所の人間がうるさがっているからといって、
彼女に手を抜く義務はない。
田舎の人より街の人の方が圧倒的に外界に無関心だ。
当然のことでもある。
外界にいちいち反応していたのでは、とても自分のペースで生活などできない。
街の中で暮らすというのはそういうことだ。

しかし、無関心にもマイナス面がある。
無関心でもストレスは溜まる。つまり、無関心なのではなく、無関心を装っているのだ。
そりゃそうだ。ロボットじゃあるまいし、都合のいいときだけ聴覚機能をON・OFFできるわけじゃない。
その小さなストレスが積もり積もっても、外界の人は無関心だから、その変化に気づかない。
そして、ストレスが限界に達したとき、その凶暴性があらわになるが、外界の人はそれが突然現れたような錯覚に陥る。

でも、人の心は瞬間的に崩壊しない。
それを食い止めることができるのは、環境の変化だけだと思う。
だからこそ、気分転換は意味がある。外出も旅行も引きこもりも。

掃除の最中、若い女の子の歌声を聴きながら、そんなことを考えてた。