こなす日々

淡々と過ぎていく。
心をどこかに置いてきたのかと思うくらい、何も感じない。
何も感じないと、何も書くことがないから困ったものだ。
最近はノート一冊買うのも躊躇する。
無駄になることを恐れている。
そのくせ、昼ご飯は高いもの食べたりする。
あ、そういえば昨日ネットで本買ったんだった。
なんなんだ、いったい。

今日は比較的仕事した。
誰に逆らうこともなく。

いまだ生きる楽しみわからん。
人々は何が楽しくて生きているのか。結局死んでゼロになるのに。

いやいや、「記憶に残る」とか「子孫を残した」とか言わないでよ。
死んだらそんなこと関係ないし。

ぼくが生きている理由で、最も新しいものはこれだ。

「ただいま<ぼく>を体験中」

これで少し冷静になれた今日この頃。

出来事は出来事として受け入れる。
出来事が起こる理由は分からない。
自業自得なら、理由は一目瞭然だから、対処できる。

でも、どうにもならないことは、やっぱりどうにもならないので、考えるのをあきらめて、とりあえず次を目指す。
そうすれば、その出来事が活きてくる日もあるかもしれない。

とにかく今は淡々と生きる。
そういう生き方を、自分の脳に染み込ませている。
今はそんな期間なんだと思う。

身体が資本

運動しないとなぁ。身体動かさないと、不要なものが体内で滞留しているような気がする。
仕事もデスクワークだし。
体力があったら、もう少し活動的になれるかもしれないしな。
しかし、スケジュールを決めないと長続きしないから、生活ルーティンにしっかり組み込まないといけない。
例えば休みの日は○時間を運動に費やすとか。
散歩は増えたけど、これはあまり体力づくりに役立たなさそう。
やっぱりある程度の負荷は必要なのだ。

思考について

自分の人生に思考が向かうのは、きっと人生に退屈しているんだと思う。
脳は元来刺激を求める。だから何も考えていないときなど、隙があれば脳は余計な思考をさせようとする。
そして、思考は癖になる。例えば何か外部刺激があって、それに起因するスイッチがいくつかあるとする。
どのスイッチを押すかは、ある程度自意識でコントロールできるのだが、何度も同じスイッチを押していると、いつのまにかある外部刺激に対して、同じそのスイッチを押すことが癖になってしまう。

それは、ポジティブ思考やネガティブ思考に関わらない。

だから基本は、常にポジティブであること。

そして、思考を他人に左右させないこと。
他人が一番操りやすい人間は、思考を自分でコントロールできない人間なのだ。
その典型的な先方に、相手を怒らせて冷静さを失わせるというのがある。
その先方に乗らないためには、まず感情と思考を切り離す。

「バーカ!バーカ!プゥ!」と言われて(あ、こいつはオレを怒らせようとしてるな)とか思うことで冷静さを保つのではなく、実害のない刺激には反応しないことが大切なのだ。

例えばここで「バーカ!バーカ!プゥ!」といわれて命の危険が脅かされるとか、生活に必要な稼ぎがフイになるとかであれば、それはまったく反撃してもやぶさかではない。

そういうものだ。

って、思いつくままに書いただけだから、後で整理します。ハイ。

他人は映画の登場人物だと思うことにする

わが社の代表には手を焼く。
「まったく、なんの因果でこんなめんどくさい人間の会社に就職したのか?」と思う。
これも立派な不運なんじゃないかと。

しかし、この世は自分の力でなんとかなるものもあれば、いくら努力しても警戒しても、どうにもならないことだってある。
代表の存在(もしくは縁)もその一つ。

だから、僕は今日から、他人を映画の中の登場人物だと思うことにする。
同じ画面の中で上映されている映画というわけだ。
映画の登場人物と思えば、嫌いな人間だからといって、映画監督に「なんであんなやつ登場させるんだ!」と文句をいうわけにはいかない。

また、登場人物だと認識することによって、僕は単なる傍観者になれる。
たとえ僕がよけいな仕事を振られても、実害がなければ気にしない。
映画に出てくる登場人物でも見るように、「アホな人だ」とか感想を、脳内でつぶやいたりする。
そして、そこから学べるものがあれば、自分の人生に生かしてみる。

たとえばブラック企業に勤めてしまって、精神衛生上よくないと感じれば、
仕事は辞めつつ「妙な会社だ」という感想を脳内でつぶやく。

なぜ自分がそんな会社に就職しなければならなかったのか?

この映画はなんでもありなんですよ、お客さん。

いやいや、話がそれてきた。
何がいいたいかというと、出来事をそのまま解析すればいいだけで、そこに「他人に対する自分の感情」がからむと、冷静な判断ができなくなる。

気楽にいこう

もう試練とか乗り越える壁とかどうでもいい。
世の中には自らを省みることもなく、平気で他人を押しのけて、人間的な未熟さを恥じ入ることもなく、平気で他人を不快にさせる人間が多いなか、しかも、そういう人間が人の人生を担う「経営者」に多いなか、なぜ普通の人間が不運をこうむるたびに耐えたり、自省からよりよい人間になろうと精進しなければならないのか。

完璧な人間などこの世にはいないし、そもそも万事が相対的なこの世の中で、何をもって「完璧」というのか。
そういう偶像を追うのをやめて、ありのままの自分で生きていこう。
ばかな人間の相手をしている時は、素直に「馬鹿だ」と思えばよい。「こんな人に対しても、大きな心で接しなければ」などと思うことはない。

そういう痛い人や出来事に遭遇することで、怒ったり避難したり自分を哀れんだり嫌悪したり、そういうのは確かに無駄だ。わざわざ正面衝突するようなものだ。
しかし、だからといって自分に負荷をかけることもない。

馬鹿は馬鹿だし、卑怯者は卑怯者だ。
それらを正しく見極め、必要なら回避する。
進路変更は撤退や退化ではないのだ。