色々

取り繕っても理由つけても、つらいものはつらい。
でも、今は足を前に出す以外にない。
たとえ他に選択肢があったとしても、一歩を踏み出す力があるなら、力がなくなるまで踏みだして行くしかない。

なぜ?

知るか、そんなもん(`_´)

晴天

今日は天気が良かったのでほぼ家事に費やした。
特にキッチン周りを念入りに。

我が家は物が多すぎる。
減らしたい。
もっとシンプルに生活したい。
ストックなんていらない。

車で1時間ほど北上したところに、お気に入りの公園がある。
ビーチに併設されている公園で、屋根付のテーブルがあり、そこに座って持参のアイスコーヒーとか飲みながら、絵を描いたり本を読んだり音楽を聴いたりするのが好きだった。

でも、もう2年以上行ってない。
「行ってもどうせ何も変わらない」
「行ってもどうせ帰ってこなくてはならない」
「行くだけ無駄」
そんな思いが強すぎて、とても足を運ぶ気にはならなかったが、
来週辺り行ってみようかと、掃除をしながら思った。

今日は家の近くでライブをしてた。
商業施設に設営された臨時のステージで、若い女の子が歌を歌ってた。
その音が家まで届いて少々うるさい。
でも彼女は一生懸命だ。近所の人間がうるさがっているからといって、
彼女に手を抜く義務はない。
田舎の人より街の人の方が圧倒的に外界に無関心だ。
当然のことでもある。
外界にいちいち反応していたのでは、とても自分のペースで生活などできない。
街の中で暮らすというのはそういうことだ。

しかし、無関心にもマイナス面がある。
無関心でもストレスは溜まる。つまり、無関心なのではなく、無関心を装っているのだ。
そりゃそうだ。ロボットじゃあるまいし、都合のいいときだけ聴覚機能をON・OFFできるわけじゃない。
その小さなストレスが積もり積もっても、外界の人は無関心だから、その変化に気づかない。
そして、ストレスが限界に達したとき、その凶暴性があらわになるが、外界の人はそれが突然現れたような錯覚に陥る。

でも、人の心は瞬間的に崩壊しない。
それを食い止めることができるのは、環境の変化だけだと思う。
だからこそ、気分転換は意味がある。外出も旅行も引きこもりも。

掃除の最中、若い女の子の歌声を聴きながら、そんなことを考えてた。

ジブリ・レイアウト展に行ってきた

ジブリが制作した映画(一部ジブリ以前に宮崎氏が携わったものもあり)のレイアウトが、額に飾って並んでいた。
館内撮影禁止だったので、展示の様子は文字のみでお伝えすると、映画単位でエリアが区切られ、実際に映画制作で使用されたレイアウトが、美術品のように一枚ずつ額に飾られ展示されていた。

通常はA4より少し大きめの紙が一枚で1シーンなのだが、カメラの動きなどによっては、複数枚を貼りあわせて画面構成を指示しているものもあった。

それ以外でも、背景は普通の鉛筆で描き、セルの指示があるものは赤鉛筆で描かれていたり、スタッフへの指示などが、専門用語のオンパレードでいたるところに書かれていた。
それらの専門用語は、額の横に説明文がついていたのでわかりやすかった。

そういえば、以前ドキュメンタリーで出ていた計算式も、しっかり乗っていた。
この計算式というのは、背景で流れる複数の雲が、1コマで何ミリ移動するかを指示する際に、その数値を算出したものだ。

しかしなにより感心したのは、みんな絵がうまい。当たり前だが。
しかもゆらぎがない。なんというか、テレビアニメは人によってはキャラクターが別人のようになってしまい、回を重ねるごとにキャラクターの顔まで変わってしまうことがあるのだが、ジブリのレイアウトはそういうものがなかった。
説明文では宮崎氏以外にもレイアウトを書いているみたいなことが書いてあったが、そうだとすると技量の統一は凄まじいレベルである。だって、キャラクターの顔はおろか、直線一つ、曲線一つとってみても、レイアウト全体を通じて統一感が半端ない。
そして、とても丁寧に描かれている。

レイアウトにはカーボンで写しとったときにつくペンの跡がくっきりのこっていた。
これが臨場感を掻き立てる。

で、率直な感想はというと、アニメというか映画作り、ひいては芸術そのものが、普通のしごとと何らかわらないということだ。サイトを一つつくり上げるのも、アニメを一本つくり上げるのも、僕にとってはすべて同じことなのだ。

だから、サラリーマンが嫌だから芸術家になろうなど、きっと言語道断なんだろうな。
通勤が嫌だから自由業になりたいとか、人の下につくのがいやだからフリーランスになりたいとか。

以前呼んだWEBの記事で、「こういう理由で起業すると失敗する」みたいなものがあって、その中に「今やっていることに不満があるから起業すると、間違いなく失敗する」というようなことが書かれていた。
では、どういう理由だったら成功するのか。それは次のようなものだった。

「既存の概念を打ち破りたいし、その方法も知っているが、今のままだとどうしてもできない」

フリーになるのも起業するのも、前向きなフラストレーションが必要なのかもしれない。

本田宗一郎は純粋に技術の人だった。
それを世界企業にまで押し上げたのは、藤沢さんのおかげだと僕は思う。

この世で何かを成し遂げるには、信念の他に技術も必要だということだ。
特にビジネスに関することでは。

そういう表舞台は僕には無理なので、僕は村上春樹か鳥山明を目指すことにする。
彼らは表舞台に出てこないが、彼らが生み出すものの影響力は計り知れない。

もちろん、彼らのような才能が僕にあるかどうかは別問題。
でも、なければないでいい。

あるかないかはやってみないとわからないので、やっているだけです。
昔だったらいざしらず、今の僕は映画の中のサリエリのように、「なんで神様は、僕に才能を与えてくれないんだ!」と言うことはない。
それだけでも、「成長したねぇ」といえるかな?

おっと、また支離滅裂になってしまった。
レイアウト展の感想だったのに。
レイアウト展は行って正解でした。いい刺激になりました。大変そうだけど、やっぱり創作は楽しそうだ。
以上。

日々の行動は脳を従える訓練なのだ

まじめにブログ書こう。サボり始めるとそれが普通になってしまう。
日々の他愛もないことだっていいじゃないか。興味ない人は読まないだろうし。

ってことで昨日の他愛ない出来事。
食事の新たなスケジュールについて。
食欲が戻っていたのか、久しぶりに体重を量ってみると、少し増えてた。
まぁ、許容範囲内だけど、この調子で食べ続けるのも考えものなので、
少し食事スケジュールを見直しました。

<見直し前>
朝:サンドイッチ(食パン2枚で作ったやつ)(自作)
昼:スーパーの弁当
夜:普通の晩御飯(自作)
間食:昼食後と夕食後(とくにチョコレート)

<見直し後>
朝:サンドイッチ半分(食パン2枚で作ったやつを半分に切ったもの)(自作)
昼:スーパーのおにぎりと惣菜1品
夜:普通の晩御飯(自作)
間食:おやつにサンドイッチ残り半分

これでどうだ。

あ、それから運動する。
以前も書いたがなかなか買い物する意欲がなくて、
スニーカーが履けなくなったから新しいの買わないといけないのに、
まだ買ってない。
でも買おう。運動しよう。
暖かくなってきたし。

ところで最近思うことは、やっぱり毎日続けることだな、ということです。
行動も思考も続けることで身体に染み込んでいくようです。

例えば今までは他人の行動がいちいち癇に障っていたけど、
(反応するな。他人の行動が直接物理的な影響を及ぼしているわけではない)と、呪文のように自分に言い聞かせていると、ある時本当に気にならなくなっている。

行動も同じようなものだ。毎日続けていると、それが習慣になってくる。いいことも悪いことも関係なく、いつのまにか無意識で、面倒だとも思わずに。

ということで、色々つづけてみようと思っています。
「やらなければっ!」という風に自分を脅迫するのではなく、「あ、そうそう」という程度のものでかまわないと思うので、無理のないように。

もうすぐ春だ。

「変化」について

ライフハッカーというサイトで、面白い記事を見つけた。

人が「変化」を恐れる理由とその対処法

その一文を引用すると、

「変化」という言葉は幅広い意味を持っていて、多くのことを言い表すのに使われます。引っ越しや転職、あるいは、家族の死などのつらい経験。そうしたでき ごとには「良いこと」と「悪いこと」の両方があり、それぞれ内容は違いますが、毎日の生活のあり方を調整する必要が生じるという点は共通しています。その 調整は、例えポジティブなものであっても、ストレスの原因になるのです。逆に、ネガティブな変化がポジティブな結果につながるケースもあります。先のこと がどうなるのか、正確には決してわかりません。それがたいていの人を怯えさせるのです。ですが、変化にうまく対処することはできます。自分のものの見方を 調整し、「どんな状況でも乗り切れる」ことを知ればよいのです。

ということだ。

記事の最後の方で、「変化」への対処法は「変化」を受け入れることだと主旨のことが書いてある。

なんらかの変化のせいで精神的に苦しんでいる時には、楽観的に考えるなんてとうてい無理だ、と感じてしまうからです。しかし、それで良いのです。好きなだけ泣いて、モノを蹴とばして、わめいてください。

僕は読みながら「結局それかい」と苦笑してしまった。
「結局は耐えるしかないのか」と。

しかし、よく考えてみると、「耐える」のとはちょっと違うように思えた。
もしかして、「受け流せ」といっているのではないか。
ストレスは我慢せずに発散する。感情的な要因は速攻で吐き出せといっている。その上で、論理的に変化に対応すればよい。

さきほどの引用文は、次のように続いている。

そうしてから、新しい状況を、もっと楽しく、もっと過ごしやすいものにする方法を探しはじめれば良いのです。変化によって失われたものに固執していると、新しい状況が連れてきてくれるかもしれない良いものを楽しめなくなります。

変化も出来事の一つである。
進路について悩むのも、晩御飯に何を食べるか悩むのも、出来事としては同じなのだ。
変化が訪れ、道を選び、時には進路を修正して、結果を蓄積・分析し、次の変化に対応する。
僕らの仕事はそれだけだ。
我々は脳に洗脳されている。同じ事象の出来事も、まるで別の映画に放り込まれたような錯覚に陥る。
しかし、たとえ舞台設定や登場人物がかわっていても、物語の行程はだいたい似たようなものだ。
脳がセンセーショナルな演出をするおかげで、僕らはそれに一喜一憂している。
本来は気にしなくて良いことなのに、脳が勝手に作り出した幻影に翻弄されるのも悔しい。

今、僕は自分らしい生活を送っているとは言いがたい。
できれば世捨て人になりたいが、状況がそれを許さない。毎日何かしらに不満を覚え、見果てぬ理想を夢見ている。

しかし、もし理想の生活を手に入れたとしても、今の僕はその生活に満足できないかもしれない。
また些細なことに捕らわれて不満を抱え、「こんなはずじゃなかった」と思う恐れは十分にある。
つまり根本が違うのだ。不満を持つ次元が違うというのだろうか。

しかし、不満がなければ改善もない。
だから、とりあえず何も考えずに日々をすごす(毎回言ってるな)
そして、変化がやってきたら、まずストレスを発散してから、出来事について考え、解決策を見出そう。
変化の理由は考えるが、自分が原因でないとわかった場合は、それ以上理由を求めない。
理由は求めず解決策だけ考える。
なぜなら、自分で避けることができる変化もあれば、避けることができない変化もある。
そこに法則はないのだ。

また思いつくまま長文を書いてしまった。まぁ、いいか。