友人との待ち合わせのため、真昼間に外出。
空のどこを捜しても雲がない。

やっと服を着込まなくても歩ける季節がやってきたようだ。
夜はまだ寒いけど、太陽が出ればほとんど夏。少しでも外を歩こうものなら、
日焼けで体がヒリヒリしてくる。

カフェでランチを食べ(カレー食べたかったのに、最後の1食を友人に取られたorz)、
アイスコーヒーを飲みながら少し休憩。
その後写真展へ。現代の街と昔の街を見比べるという主旨の、懐かしさを感じさせる写真だった。
といっても、僕らの時代よりさらに昔の写真なので、個人的には懐かしさより新鮮さが強かった。
「あ、昔はこんな街だったのか」っていう感じ。

その後時間が余ったので、本屋へ。
しかし、今この時点でほしい本はなく、そのまま友人と別れて帰宅。
夕方くらいに家に着いた。

実は欲しい本をamazonで注文していた。
すでに絶版になっている「沖縄シャウト」という本だ。
マーケットプレイスで一昨日注文したので、そろそろ来る頃だ。
でも、今日は日曜だから、届くのは明日かなと思いながらポストを開けると、届いてた。


古本とは思えないほどきれいな本だ。しかも、定価の半額。なかなかいい買い物だ。

早速読み始め、その夜に完読。
なかなか読み応えのある本だった。
この本を買おうと思った一番の理由は、紫やアイランドという沖縄バンドのメンバーであった城間兄弟について書かれていたからだ。
本を読む前に仕入れていた断片的な知識だけでも、彼らの人生が波乱に満ちていたことが想像できるが、
この本は彼ら自身が取材対象となっている章があり、より深く彼らを知ることができると思った。

そしてもう一人は、この本を書いた作者である砂守勝巳氏。
自身の事も本の2章分を割いて書かれている。
城間兄弟同様、米軍統治下の沖縄で、外国人の父を持つが、幼くして父と別れる。
この本で彼の生い立ちと、分かれた父との再会が語られている。
僕は以前に「沖縄ストーリーズ」という本を読んだことがあり、
そのとき砂守氏の存在を知った。
そして、彼が城間兄弟の事を本に書いていることを知ったが、
当時すでに入手困難となり、復刊を望んでいたが未だにかなわず、
今回マーケットプレイスで入手した次第だ。
つまり、城間兄弟と同じく、僕は作者自身にも興味を持った。
そして、その興味は僕自身納得できる動機から生まれたものだった。
いわく、「彼らはなぜ前向きに生きていられるのか」

この本に出てくる登場人物は、皆自己の責任外にある過酷な人生を生きている人々だった。
僕なんか足元にも及ばない理不尽な「この世」で、前向きに生きている姿が生き生きと語られている。

作者自身は2009年に他界してしまったそうだが、
この本は全く色あせることなく、今でも人間の強さみたいなものを、ありのまま伝えてくる。

理屈や哲学が含まれているわけではない。
ただ読むだけで、ちょっと前向きになれる気がするから不思議だ。

◎本日のノルマ
運動:外出時は歩いた。
執筆:まだまだ!

変わった事なし

今日も仕事だった。
おかげで今週は週休1日。休みは明日だけ。
まぁ、その前に6連休しといて、何言ってんだってことなんだけど。
6連休のうち3日は外出したし、そのあとの2連勤も、多少残業したとはいえ、個人的には適度に、世間一般では「暇」の部類に入るくらいの仕事量だった。

最近はなるべく頭を使わない、もっというと「考え込まない」ようにしてる。昔はそういう生き方をしていたけど、後になって自分の行動を後悔することもあったので、いつの間にか行動を起こす前に熟慮するようになってしまった。
それを元に戻した。
具体的には、言いたいことを躊躇しない。
そして、自分を省みない。
省みると、きっと後悔する事もあるだろう。自己嫌悪に陥ったり、突然フラッシュバックのように思い出したりする。
だから、基本は省みないし、フラッシュバックは無視する。自己嫌悪は開き直る。100%後悔しない人生なんて送れるはずもないし、自分より非道い人間が、のほほんと生きてるわけで、無意味に省みるのは時間のムダだということに気づいた。
ただ一つ、先日見いだしたルールとして、自己顕示欲を満たす類の行動はしない。
これだけは守る。

ひとまずそういう生き方をしてみる予定。

◎本日のノルマ
運動:昼休憩時の散歩
執筆:してない。きっと今は思考量のリミットが低くなってて、休日も頭を使う余裕がない。

チャレンジ!

今日も外出したので、昨日決めたルール「自分を優位に位置付ける類のプライドは捨てる」を実行してみた。
幸か不幸か今日は祝日で、他人と遭遇する機会は多い。

最初は車の割り込み。割り込みというより強引の車線変更というべきか。
思わずクラクション鳴らそうかと思ったが、あ、いや、鳴らしたんだった。だって、危ないし。おばさん首振り確認してないし。
次はやたら遅い車。渋滞つくる元凶みたいに、まわりの流れを完全無視で走っていたが、悪態をつくことも、相手をあおることもなく、無心で車線を変更して追い越した。
でも、こうやって文字にすると至極普通の反応だし、他の人も同じように対処してるようだ。
よく心理的戦術として用いられるテクニックの一つに、わざと相手を逆上させて冷静な判断を失わせ、自分のペースに引きずり込むというのがあるが、それにはまらないようにするには、感情を無視して、常に論理的である必要がある。

今回僕は論理的であろうとした。感情の影響を排除した上で、必要と思われる行動を取った。
だから、悪態はつかないが、クラクションは鳴らした。相手の車をあおることはなかったが、追い越した。
それだけだ。
なんて簡単なんだろう。

今日は常に平常心だったからだろうか。
ほとんどの人がいい人だった。
笑顔が素敵な婦人もいたし、道を譲ってくれた運ちゃんもいるし。

ん?待てよ?
これじゃまるで、みんなが僕に優しかったから機嫌がいいだけみたいじゃないか?

いかんいかん。
平常心を忘れるな。

前向きのみということで

調子が悪いとかブログで書いても、なんの参考にもならないなぁ、と思いついた今日この頃。
原因があって調子が悪いなら、解決策の参考になるかもしれないけど、唐突な時もあるもんで、そういう時はあえて体調に触れず、何か前向きな事でも書こう!
ということで、今日は犬の散歩に行きました。
あぁ、そうそう。バスルームの掃除もした。そうじというか丸洗い。中のものをすべてバスルームの外にだして、床と壁をバス用洗剤で磨いて、ラストはホースで洗い流す。
午後一番で掃除したら、夜にはちゃんと乾いていました。キレイなお風呂は気持ち良い!

それから、マンガ読みながらポテチ食べた。もう何ヶ月ぶりに食べた。98円で買った小さいやつだけど。美味かった。でもダイエットが・・・
まぁ、たまにはいいかな。散歩も掃除もしたし。

そういえば、最近は本を読んでないなぁ。未読の本が結構ある。
落ち着いたら読書しよう。
あ、会社の昼休憩で読むんだった。

そうやって、今日が終わりました。
なんか急激に眠くなってきたので、今日はこのへんで。

外出だっ!

物を買うとき、まず本当にそれが必要かを考える。しかし、必要だと判断した場合でも、即購入ということにはならない。僕は次に、その必要と思われるものは、他で代替できないのかを探ってみる。
例えば会社で使おうと思っていたメモ帳がほしいと思ったときだ。
電話がかかってきた際に、相手の名前や会社名を書きとめなければあらないが、書くものがないときにあわてないよう、メモ帳を用意しておこうと考えた。
で、いつもの手順に従って必要性の調査を開始する。
メモ帳は必要か?
メモ帳がないと、相手が誰なのかわからないケースが出てくる。
それでなくても電話は緊張するのに、その時メモ帳がなかったりなんかした日には、メモ帳探しに気を取られて、相手が何をいってるのか覚えてないくらいだ。その時に「◯◯商事の◯◯です」とか言われても、僕の記憶には残らない。
だから、常にメモ帳が用意されていることが必要となる。

じゃあ、次に「他での代替」はどうだろう。
僕はほぼPCの前で業務時間を過ごすことになる。WEBデザインやプログラミングの仕事では、脳内イメージを整理するためにノートを使う。ノートは常にカバンに入っているわけだ。

ということは、始業時に必ずデスクにノートを広げることで、メモ帳の要件を満たすことができる。

こうやって文章にすると大げさだが、「気づき」とかいうのはだいたいこんな手順を踏むようだ。
とにかくこれで、「出勤したらまずノートを出す」というフローを設けることで、メモ帳が必要なくなったわけだ。

そんな中、今回はさすがに代替が効かない必須アイテムを購入しなければならなくなった。
それは「靴」だ。つまり、会社へ履いていくクツ。
今履いているやつは3,000円くらいで買った安物なのだが、3年前に買って以来、無職期間中に半年のブランクはあるとしても、よく頑張ってくれたものだ。
それが最近の昼休憩散歩で寿命を迎えてしまい、見た目もボロボロだし、雨も染みこんでくるようになり、とうとう買い換えることにした。
しかし、会社に履いていけるようなクツは他に持っていない。いや、持っているには持っているし、実はそっちの方が高いクツなのだが、そのクツはコテコテの革靴で、長時間履くには疲れるし、足が痛くなるし、それを履いて散歩などとてもできない。
それ以外に持っているクツはスニーカーなので、代替はない。
それからもうひとつ買うものがある。
家のソファだ。
これは某通販サイトで6年前に購入した30,000円くらいのソファだが、スプリングが飛び出したりして座り心地が悪い上、最近座り方がおかしいのか、ソファに座ると首が痛くなる。
かといって、リビングにソファなしだとフローリングの上に寝っ転がるしかなくなるわけで、ソファは欲しい。
代替はといえば座椅子ぐらいか?
でも座椅子はないのでどのみち買わなければならず、結局自分の体にあうソファを、少々高くても近くの家具屋で買おうという結論に至った。
座り心地はボディーバランスに繋がり、最終的には自分の健康に跳ね返ってくるので、「贅沢なのでは?」と思っても、ここは妥協しないことにした。高いソファを買っても、その分食費を減らせばいい。実際減ってるし。

そこでゴールデン・ウィーク前半の連休に、クツとソファを買いに行った。
やっと外出する理由を得たという気分だ。
午前中から出かけていき、ケンタッキーで昼ごはんを食べ、靴屋と家具屋に行った。
途中で車に乗ったおじさんと一悶着あったが、なぜか僕は気にならない。
車に乗った僕が赤信号で止まっている時に、道路沿いの家から出てきたおじさんが、運転席からジェスチャーで「後ろに下がって道を開けろ」と言ってきたが、僕の後ろにはすでに後続車が並んでいたので、僕はほっといた。
すると、おじさんは無理矢理隙間に割り込んできて、僕に一言文句を言って通りすぎようとしたので、僕も言い返して、信号が青になったので車を走らせた。
これが昔だったら、「外出しようと思った日に、よりによってこんなおじさんが。嗚呼、なんて運が悪いんだ」と考え、もしかしたら外出を中止して家に帰るかもしれないところだが、なぜかその日は車内でおじさんに毒づいたら、それ以上は気にならなくなった。
いったいどんな心境の変化なのだろう。
以前僕は「運の悪さは自分の責任ではない可能性もある」ということを思いついたが、
ああいうおじさんが街に出れば、きっと災難を被る人が少なからずいるだろう。
そんな人が「嗚呼、自分は運が悪いんだ」と、その日を悲観するのは、損をしている気がする。
当のおじさんは我を省みることなどないだろう。
それなのに、なぜ災難を被った人が自分の不運を嘆かなければならないのか。
うん、やっぱりこれは時間の無駄だ。
一つの大前提として「この世はそういうものなのだ」という、一種の諦めが必要だ。
ああいう人間もいるし、それとは逆に、自分のために商品を探してくれる店員さんもいる。
障害者の駐車場に平気で駐車する人もいれば、
たまの休みに子供の手を引いて、一生懸命父親役を成し遂げようとする若いお兄さんもいる。
きっと彼は僕みたいに途中で何かを投げ出すこともなく、割り込みおじさんよりもっと非道なお客を相手にしながらも、家族を守るために必死で働いているのかもしれない。

こうやって冷静に考えてみると、こんな世の中でもがんばって生きている人の方が、「憎まれっ子」よりもはるかに多い。
彼らには特別な権力も財力もないかもしれないが、でも「多数派」なのだ。

今日は結局何も買わなかった。僕に合うクツはなく、座り心地が良くても高価過ぎるソファしか見つからなかった。
でも連休はまだ途中なので、また別の店に行ってみようと思う。